最新のお知らせ

2022 / 07 / 16
10:04

【会堂での礼拝中止のお知らせ】2022年7月17日(日)

みなさん、こんにちは。急なお知らせです。

明日(2022年7月17日(日))の主日礼拝は、急遽礼拝堂での礼拝を取りやめることになりました。

理由は徳島県による「とくしまアラート」が「1」から「2」に引き上げられたからです。

徳島北教会の現在のガイドラインでは、「2」で会堂礼拝を取りやめ、完全リモート礼拝に移るよう取り決めております。

残念ですが、普段会堂での礼拝にご参加の方はZOOMで、またそれ以外の方は引き続きYouTubeライブでご参加ください。

コロナ禍の早い収束を願うものです。

2022 / 07 / 15
21:55

【礼拝のお知らせ】7月17日(日)「主の祈りには感謝の言葉がない」

【礼拝のお知らせ】7月17日(日)「主の祈りには感謝の言葉がない」

皆様、こんにちは。次週の日曜日、7月17日(日)は、礼拝堂での対面とZOOM、YouTube併用のハイブリッド礼拝です。

説き明かしは「主の祈りには感謝の言葉がない」。

聖書の引用箇所は、マタイによる福音書6章9−13節、いわゆる「主の祈り」と呼ばれている箇所です。

YouTubeライブのリンクは下記のとおりです。午前10時25分から配信を始めますので、よろしくお願いいたします。

https://youtu.be/bDDsPhWfIYo

2022 / 07 / 10
16:17

【われらはひとつ…それでいいの?】2022年7月10日(日)部落解放祈りの日礼拝説き明かしを公開しました。

【われらはひとつ…それでいいの?】2022年7月10日(日)部落解放祈りの日礼拝説き明かしを公開しました。

不穏な空気がまん延する世の中になってきました。疫病、戦争、銃撃……不安が私達を襲ってきます。このような世の中にあって、私達はどのように生きればよいのでしょうか。悩みは尽きません。神が私達と共におられることを祈ってやみません。

2022年7月10日(日)は、部落解放祈りの日です。日本キリスト教団では、毎年7月の第2日曜を「部落解放祈りの日」と定めて、この世の一切の差別を無くす思いを新たにする日としています。私達の徳島北教会も、この日を差別からの解放を祈る礼拝としました。

今日の礼拝のメッセージ「われらはひとつ…それでいいの?」を公開しました。よろしければお読みください/お聴きください。

メッセージ原稿はこちら

https://note.com/ichurch_me/n/n930aaf717757

YouTube動画はこちら

https://youtu.be/htHCGNQ_zIU

 

 

 

2022 / 07 / 08
20:23

【部落解放祈りの日礼拝のお知らせ】

C1ACE949-1094-4B23-B72C-45C816CF568A.JPG

皆さん、こんにちは。

2022年7月10日(日)は「部落解放祈りの日」です。日本基督教団では毎年7月第2日曜日を「部落解放祈りの日」として、差別をしない、させないことを改めて誓う日としています。

徳島北教会も、この日を「部落解放祈りの日礼拝」として守ります。

会堂での礼拝とYouTubeライブ配信での礼拝、ハイブリッドで行います。YouTubeのリンクは下記のとおりですので、よろしければ日曜の10:25よりお入りください。

https://youtu.be/1rC-v0P92Po

 

2022 / 06 / 19
19:29

【嫉妬と劣等感から出てしまった罪】2022年6月19日(日)主日礼拝説き明かし

【嫉妬と劣等感から出てしまった罪】2022年6月19日(日)主日礼拝説き明かし

2022年6月19日(日)の主日礼拝の説き明かしを公開しました。

原稿は→https://note.com/ichurch_me/n/n8579b6243cea

YouTube動画は→https://youtu.be/CAqGdNi_85I

聖書の言葉……創世記4章1−16節(カインとアベル)  人類最初の殺人は、最初の神への裏切りからたった2世代目に起こってしまいます。しかも、最も身近で仲良くあって欲しい兄弟の間で起こってしまうのです。

 この物語は原型は、おそらく遊牧民の民話でしょう。神様は定住の農耕民たちの献げ物ではなく、自分たち放浪の遊牧民の献げ物に目を留めてくださるのだという物語でしょう。それを素材にしながら、創世記の著者は、人間の愛憎と憎しみの根源を描く物語に仕上げたのではないかと思われます。

 悲劇の始まりはアダムとエバが、善悪の知識により、ありのままの自分たちを受け入れられなくなって、自己否定を始めたことに端を発しているのではないでしょうか。

 本当の自分を自分で受け入れられない両親のもとで育ったカインとアベルは、善悪の知識で自分や他人をさばき、他人の評価でしか自分を肯定できない人間に育ってしまいます。そして今回、主が目を留めるか留めなかったで、自己肯定と自己否定に分かれてしまうのです。

 主の選択とその前後の対応に問題がなかったわけではありませんが、カインが「自分は間違ったことをしているわけではない」と自覚していたら、このような悲劇にまで発展することはなかったかもしれません。しかしカインは、自分の存在意義を他者からの評価に預けてしまったのでした。そしてその自己否定の感情が、殺意を抱くまでの憎しみに発展してしまったのでした。

 本当の愛を受けて育つことができなかった人は、自分のとても近くにいる者を攻撃することで自分の存在を確認しようとするのではないでしょうか。そして、それがこの世の差別、排除、ヘイトに相通じるものがあるのではないでしょうか。

 本当は愛されなくてはならないのは、殺意を抱いてしまったカインの方なのでしょう。

Today's Schedule